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■■棒手裏剣術は、非力な少女でも大人に勝てる武術です。







棒手裏剣地獄小女 棒手裏剣 

  地獄少女 お仕置き集                   棒手裏剣



 Bou Shuriken 棒手裏剣
http://youtu.be/CY6RgtDa7T8




まだ子供の頃には、幕末を生き残った本物の侍から手ほどきを受けた古老が健在でした。
刀筋の通った見事な振りを見せてくれたものです。
隠し技として、棒手裏剣術を心得ていた。


 

(最後の将軍 徳川慶喜公も棒手裏剣の優れた打ち手)

私は、見よう見真似で覚えました。
2間半なら外しません。


普通、弧を描く「直打法」の投げ方ですが、私のは、尖峰を敵にそのま通す古風な打法です。

手裏剣を避ける方法も学んだ時代、動かない敵は居ませんでした。
しかし敵が細かく動いても、正確に仕留める古法です。
楕円を描かないので目に留まらない、飛んでくるのが見えにくい。相手からしたら、点にしか見えないのです。
薄暗い状況なら尚更です。
(昔は棒手裏剣に、毒草を練った物を筋に塗りこんで置いたそうです)



*今思い出すと、毒の牙を隠し持った子供でした。
悪い大人を仕留めたかったのでしょう・・

もうこの世には居ない奴ばらです。

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「太平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん=黒船)たった4杯で夜も眠れず」 幕府内の動き



戦国時代を終わらせた徳川家康は、軍事だけでなく諜報戦に重きを置いていました。

幕末期の江戸幕府は、国内諜報だけでなく海外情報を念入りに収集している。
長崎奉行は、オランダ船が入港すると情報をオランダ館に集めさせ、「和蘭(オランダ)風説書」として、江戸幕府に送る役目がありました。長崎奉行の意見と新聞(植民地発行の新聞が主)を添付。


伊豆韮山・永代世襲の代官・江川家は、幕府の天領地(収入源)預かる立場であり、海防力(江戸湾・千葉)の充実も役目でした。

 
伊豆韮山・
江川代官所 準藩校(江川砲兵塾)
伊豆韮山代官所の兵学校は、後に「江川砲兵塾」と通称された。
学んだのは、木戸孝允(桂小五郎)、大鳥圭介(五稜郭開城、降伏まで戦う、特赦されて清国・朝鮮公使)、佐久間象山、大山巌(明治の元帥・陸軍大臣)、木村銃太郎(二本松少年隊を率いた)、黒田了介、大山弥助、伊東祐麿。
倒幕派、佐幕派の別なく、戊辰戦争を戦った砲術指揮官は「江川砲兵塾」の出身者です。



黒船騒動の以前から、蘭学を有為な村の若者にも学ばせています。
怒涛の天地逆転の「アヘン戦争」を早くから知る立場でした。


江戸幕府内で協議した結果、アヘン戦争(清国と英国)の詳細をオランダ館に「別段風説書」を提出させました。(主に植民地英字新聞)

長崎には唐人(清国人)も出入りしています。
「唐風説書」を江戸幕府に急送したのです。
清国と英国の両国の言い分を調べ上げました。


嘉永5年(1852年)、新たな「別段風説書」が届けられました。
「米国艦隊を日本に派遣する」と、恫喝する予告が書かれていたのです。
ここで重大な事も書かれていました。「陸戦隊」も乗船しているとなっていたのです。
アヘン戦争では、陸戦隊の上陸で清国は和睦 (実態は降伏)

海防策に詳しい江川太郎左衛門英龍を交えて協議 (米艦隊の武装、戦法)
不利を悟った幕府(老中・安部正弘=海防掛)は、黒船艦隊の来航を告げた「別段風説書」を譜代大名に回覧して意見書を求めました。


海防の強化に本格的に着手したのです。


西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和、そして「大砲台場」の建造でした・・・


 

【参考】
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 「異国船無二念打払令」は文政8年(1825年)に発令されましたが、天保13年(1842年)には撤回され「天保薪水令」に切り替えていました。外国の船がやってきたら食糧や燃料を与えてお引き取りいただくという穏健な政策です。この政策の切り替えは「アヘン戦争」を知っていたからです。
引用⇒ http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20130114/1358160484
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老中・安部正弘(海防掛)
幕政においては、弘化2年(1845年)から海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせた。また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、筒井政憲、戸田氏栄、松平近直、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震など大胆な人材登用を行った。

正弘自身は異国船打払令の復活をたびたび諮問しているが、いずれも海防掛の反対により断念している。ただし、これは正弘の真意ではなく斉昭ら攘夷派の不満を逸らす目的であったとの見方もある。

正弘は江川英龍、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを登用して海防の強化に努め、講武所や長崎海軍伝習所、洋学所などを創設した。後に講武所は日本陸軍、長崎海軍伝習所は日本海軍、洋学所は東京大学の前身となる。また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など幕政改革(安政の改革)に取り組んだ。
 
安政4年6月17日(1857年8月6日)、老中在任のまま江戸で急死した。享年39。跡を甥(兄・正寧の子)で養子の正教が継いだ。

wikipedia

*ブロク主 米国で学んだジョン万次郎を韮山に攘夷派から匿ったのは江川英龍でした。
準藩校(韮山)で、英語を教授させた。

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■江川太郎左衛門英龍 お台場
http://nouheibushi.kan-be.com/page006.html

お台場地図 



お台場建造その1
 
http://youtu.be/yLd8S_aqHQ0




お台場建造その2

http://youtu.be/KGlkGQ1akUY


お台場建造その3
 
http://youtu.be/YRHCDaP5oIA




鎌倉時代、伊豆の韮山に日蓮聖人が現れました。

執権・北条氏に伊東に流罪とされていたのですが、韮山に招かれたのです。
韮山は北条氏の故地です。
江川氏とは同じ村・・・鎌倉幕府の配下の家来でもあります。
鎌倉に逆らったのか? 鎌倉の暗黙の指示なのか? 歴史の謎です。


江川太郎左衛門英龍に母親が与えた『忍』の文字は、刃の下に心を置くことですが、日蓮聖人の『忍辱(にんにく)』の教えだと思います。
元服の齢では、己一人で自刃する作法を教わります。(介錯なし!)
そして『法華経』を学ぶのです。
現在も・・・・



【参考】
忍辱(にんにく) 今を肯定し受け入れる

良寛和尚の有名な言葉に、「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬる時節には、死ぬるがよく候。」とあります。「災難や死には普段からそれぞれ備えをなすべきで、その場に臨んだら避けられないのだから、災難や死に徹して生きよ」(松原泰道「心の杖ことば366日」海竜社)ということです。

■江戸開城  勝海舟と罠に嵌った西郷隆盛


表の歴史のみで、実相の歴史を知らない大人が、今の日本を動かしています。


明治維新では、慶応4年(1868年)4月に江戸城・無血開城とされている正史ですが、実相は左にあらず。




新政府軍が江戸進撃の前に、陸軍総裁・勝海舟と大総督府下参謀・西郷隆盛の会談が、江戸開城交渉は、田町(東京都港区の薩摩藩江戸藩邸において、慶応4年(1868年3月13日・14日)の2回行われた。

最初(3月12日)、東征軍の本陣(屯営)は、池上本門寺に置かれた。
この寺を西郷に勧めたのは、日蓮宗門徒の勝さんでしょう。



勝海舟と西郷隆盛会見の碑 
(勝海舟と西郷隆盛の会談碑 本門寺)

訪問した勝海舟と西郷隆盛の最初の会談は、本門寺の庭園・松濤園と伝わります。
東征大総督・有栖川宮熾仁親王と下参謀・西郷隆盛の宿舎は、現在の理境院です。

 


乱暴狼藉は、悉く勝海舟の耳に入っていたのです。




新政府軍の武力攻撃が、作戦参謀の間では規定方針でした。


恭順派の勝が、戦争なら江戸に火を放つと西郷に迫ったのです。


 
(池上本門寺お会式 火消し組みの纏)

実際に日蓮宗門徒の江戸火消し組に準備させていたのです。
必死の恫喝は、ここでしたでしょう。
半鐘の合図で、江戸火消しの放火が始まる。



第六台場 
(第六台場Wikipedia)

また、陸軍総裁・勝海舟の配下の徳川幕府陸軍9個連隊(総人数17000人) と韮山農兵隊=御料兵は、この時代、高島秋帆に教授された重砲装備部隊(沿岸砲) 、小銃射撃では、最も長期間訓練されている西洋式軍隊でした。

勝さんが本門寺を指定したとしたら、戦略が窺える・・・

80ポンド青銅製カノン 
(80ポンド・カノン砲 遊就館)


御殿山下台場跡 
*(御殿山下台場跡 )
幕末トラベラーズ/地図と写真で見る幕末の史跡
http://bakutora.japanserve.com/spt-edo-017-gotendaiba.html

遊撃部隊・御殿山下の陸付き台場(品川)に据えられている移動式重砲(沿岸砲)の近接しての一斉射撃で、本門寺布陣の東征軍を壊滅させたでしょう。
砲弾は一台場に6000~10000発が備蓄されていた。
80ポンド、36ポンド、24ポンド、12ポンド、6ポンドカノンなどで総数200門とも。
(江川家文庫)

既に、用意周到な火砲の射撃諸元は済んでいる。
西郷は勝さんの罠に嵌っていたのです。

激突すれば大戦争になる。



長い間沈思黙考した西郷は、一旦の休戦を承知した。
本格的な会談は、翌日から薩摩藩蔵屋敷になったのです。
本門寺での布陣は不利と悟ったのでしょう。 (笑)


幕末江戸城門絵図NET 
(幕末江戸城門絵図NET)


だが、勝は用心のため江戸城の裏門を開けて江戸の住民たちを避難させました。


為政者としての用心深い配慮です。



やはり、危惧した江戸に進軍する新政府軍の乱暴殺略は、明治になっても数年のあいだ続きました。




正史にはありません。隠された歴史です。



最も狙われたのは、残った旧幕臣たちでした。



徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜の隠居地の静岡や、

已むを得ず、旧天領地域の縁を頼って多摩郡には多数移住したのです。




廃刀令、あだ討ち禁止令など矢継ぎ早に出さざるを得なかったのです。

彼らは上野戦争、船橋戦争、戊辰戦争、函館戦争などで、旧幕臣からの復讐を恐れた。




老獪な勝海舟は、明治新政府に仕えながら、その俸禄を困窮する旧幕臣に配っていました。



最も暴発しやすい日蓮宗門徒の士族たちへの配慮でした。



彼自身も日蓮宗の檀那です。




幕府に殉じて亡くなった旧臣たちの法要費用は、彼が大半寄進してい.る。

(祖父から直に聞いています)




人間洞察に疎い大久保利通は、昔の同志に配慮せず、紀尾井坂で不平士族の六名によって暗殺された。

彼の新政府治世下では、乱を何度も起こされていた。







*紀尾井坂の変(きおいざかのへん)は、1878年(明治11年)5月14日に、内務卿大久保利通が東京府麹町紀尾井町清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町)で不平士族6名によって暗殺された事件。「紀尾井坂事件」「大久保利通暗殺事件」ともいう。(Wikipedia)







かすかに残る昔の記憶 幕末前後の古写真

昔の日本


(BGM 喜太郎)

幕末前後の古写真に郷愁を感じるのはなぜでしょうか?


黒白写真に採色を施してあるものまで残っている。
(浮世絵の彩色技術)
当時の人たちの見ていた実際の風景なのでしょう。 

庶民の生活ぶりは、質素に見えますが清潔でゆったりした時間の流れを感じる。

今にも伝わる祭りの音色、書画骨董や生活の小物、農具、田畑の灌漑施設、御宮にお寺さんは、当時のまま残ってもいる。

庶民として確かな人生を過ごした証。


昔ですが、

百姓夫婦の底抜けな明るい笑顔の古写真から感じたのは豊かさでした。
自然は温暖で植生豊かな気候があった。

戦後の左傾化した貧農史観(ひんのうしかん)に染め上げられた言説に違和感を持ちました。

先祖を謗(そし)られているように感じたのです。
貧農史観は、自虐史観(じぎゃくしかん) とセツトの戦後のGHQ歴史観なのです。


本 貧農史観を見直す (講談社現代新書) 佐藤 常雄 大石 慎三郎 (著)


田舎(天領)の土蔵にある物は、その農民が書き残した勘定帳、義理掛帳や、学んだであろう仏典、農業解説書、薬種、拝領の書画など多数があったからです。(子供たちの手習いの習字なども)

領民の命を大切にしなければ、学ぶ環境なぞ無かったはずです。


【参考過去記事】
幕末風塵記 農兵隊 
2010-07-03 11:38:18
テーマ:日本の歴史 幕末


その場所で・・

ふっと、感覚が過去に戻る瞬間があった。


重たい銃身
吶喊(とつかん)の雄たけび

一服の茶

寺の前の茶屋
(江の島龍口寺)

古写真を見た時の驚き、眩暈(デジャヴ)。

後になり、幕府の洋式鉄砲調練場所に使われていた”域内”と知る。




民族の共有意識が、かすかに残る昔の記憶として懐かしいのでしょう。

貴方も、その時代に精一杯生きたのかもしれない。

自分や縁ある人たちに似ている顔が、古写真に・・・。






*ペタ復活させました。

■不思議な絵の場所を推理する

$taroozaの不思議の謎解き 邯鄲(かんたん)の夢
東都 三ツ股の図 歌川国芳1797~1861 (source: wikimedia commons)


この浮世絵に描かれた奇異な二つの建造物は、東京スカイツリーの付近とネットで騒ぎになったことがありました。
江戸時代末期の浮世絵師、歌川国芳(うたがわ くによし)が、東京スカイツリーと予見して後世に残したのだと・・

$taroozaの不思議の謎解き 邯鄲(かんたん)の夢
(東京スカイツリーwebカメラ)


さて・・
絵師の位置は隅田川対岸から本所・深川を描いています。
右手側は、隅田川河口で江戸湾です。

船喰いの害を防ぐため、船虫や小貝を燻したり、焼きごてで削ぎ落している作業です。
絵に描かれた猪牙船(チョキフネ)と呼ばれているのは、いのししの牙に似て舳先が反り返っているからでしょう。
猪牙船は、汽水 (きすいいき)で使用されていました。

少々の海と掘割の波にも堪える構造です。
専用の川船は平底で舳先が反っていず、波の立つ所には向いていません。


煙の先には大きな「永代橋」と「佃島」が見える。
永代橋の謂れは,江戸時代に遠島の流人(るにん)を送り出す所となっていた。
川と海との境界、即ちあの世とこの世の境目になぞらえたのでしょう。

不思議な塔の辺りは、隅田川と小名木川との合流地点なので三ツ股という地名になったとも。
江戸開府の時、最初に作られた水路です。
小名木川にかかるのは万年橋です。

小名木川の万年橋の左岸は東京都江東区常磐(森下町)であり、右岸は清澄白川です。
隅田川の永代橋の先には、門前仲町があります。
対岸のその中のエリアに、不思議な2つの塔が描かれている。



$taroozaの不思議の謎解き 邯鄲(かんたん)の夢
深川江戸資料館 火の見櫓

三ツ股の火の見櫓(やぐら)は,
左側に幕府御用の米の籾蔵(年貢米の倉庫)、御船蔵(水運)、御徒組屋敷(旗本の元締め)小名木川の両岸には、大名家の下屋敷群などの重要拠点をいち早く火災から守るためでしょう。

清澄には、久世大和守屋敷(現・清澄庭園)、銀座御用屋敷(通貨)、近接して木場(貯木場),大工町(火消し要員・江戸職人)が配置されていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%BE%84%E5%BA%AD%E5%9C%92#.E6.AD.B4.E5.8F.B2

江戸時代の町火消しは、「破壊消防」が主要な手段で大工たちの職分でした。
彼らが火の見櫓の管理をしていました。
火の見やぐらに近い場所に住居が有ったのです。

即ち彼らの住んでいた場所(大工町)に火の見櫓が有ったと推定されます。

清澄の久世大和守屋敷(清澄庭園)付近が、浮世絵の火の見櫓の位置と思われます。

そして、最も高い電波塔のようなのも、右岸の「清澄白河」だと推理しました。



尚、電波塔のようなものは、北斎の「東都浅草本願寺」の井戸掘り図絵から類似と見做された。
「上総掘り」、もしくは「大坂堀り」の櫓(やぐら)との説が大勢です。

子どもの頃、井戸水を飲んではいけないと注意されていましたが、試しに口に含んだことがあります。
薄い塩水なので吐き出しました。

相当深い井戸ならば、飲めますので江戸時代には、高い櫓を組んで掘ったのでしょう。

しかし、深川では、飲用水に使われた井戸は少ない。
大半は、生活用水なのでしょう。
水売りが商売になっていました。


偶然なのか、東京スカイツリー(押上)に御府内の人が歩いて行くとしたら、永代橋を渡り、門前仲町から始まる清澄通りで、清澄白川へと抜けていきます。
そして清澄通り(二ツ目)から三つ目通りを経て押上の東京スカイツリーへと歩くでしょうね。

三つ目通りの名称は、江戸時代からあり、一ツ目之橋、二ツ目之橋、三ッ目之橋、四ッ目之橋が元でしょう。

三つ目は、不思議な第三の眼とも云われます。


先月、清澄白河町でストロンチウムが検出されました。
「東都 三ツ股の図」は、偶然の一致にしては奇妙な浮世絵です。
まるで、後世の人に伝えるために、不思議な「印(徴)」を遺したようです。 


時を超えた「意味ある偶然の一致」なのかもしれません。


少し長い文章になりました。
読んでくれてありがとう。。

*参考 深川江戸資料館(白河1丁目)
http://edomae.exblog.jp/11854544/


*参考 芭蕉庵史跡展望庭園(東京都江東区常磐1丁目)
http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Kotoku/BasyoAn/BasyoAn.htm

隅田川と小名木川の合流地点の岸辺に作られた庭園で、このあたりは芭蕉庵が建っていたところでもある。芭蕉像は庭園の中程に「三つ股」と呼ばれた合流地点を眺める格好で鎮座している。

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Author:tarooza
◆忘れていた幼い頃の記憶が甦ると、不思議な体験は縄文人の「霊的な感性」によるものと気付きました。

現代人の理知と縄文人の霊的な感性で現世を視ています。

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