「太平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん=黒船)たった4杯で夜も眠れず」 幕府内の動き



戦国時代を終わらせた徳川家康は、軍事だけでなく諜報戦に重きを置いていました。

幕末期の江戸幕府は、国内諜報だけでなく海外情報を念入りに収集している。
長崎奉行は、オランダ船が入港すると情報をオランダ館に集めさせ、「和蘭(オランダ)風説書」として、江戸幕府に送る役目がありました。長崎奉行の意見と新聞(植民地発行の新聞が主)を添付。


伊豆韮山・永代世襲の代官・江川家は、幕府の天領地(収入源)預かる立場であり、海防力(江戸湾・千葉)の充実も役目でした。

 
伊豆韮山・
江川代官所 準藩校(江川砲兵塾)
伊豆韮山代官所の兵学校は、後に「江川砲兵塾」と通称された。
学んだのは、木戸孝允(桂小五郎)、大鳥圭介(五稜郭開城、降伏まで戦う、特赦されて清国・朝鮮公使)、佐久間象山、大山巌(明治の元帥・陸軍大臣)、木村銃太郎(二本松少年隊を率いた)、黒田了介、大山弥助、伊東祐麿。
倒幕派、佐幕派の別なく、戊辰戦争を戦った砲術指揮官は「江川砲兵塾」の出身者です。



黒船騒動の以前から、蘭学を有為な村の若者にも学ばせています。
怒涛の天地逆転の「アヘン戦争」を早くから知る立場でした。


江戸幕府内で協議した結果、アヘン戦争(清国と英国)の詳細をオランダ館に「別段風説書」を提出させました。(主に植民地英字新聞)

長崎には唐人(清国人)も出入りしています。
「唐風説書」を江戸幕府に急送したのです。
清国と英国の両国の言い分を調べ上げました。


嘉永5年(1852年)、新たな「別段風説書」が届けられました。
「米国艦隊を日本に派遣する」と、恫喝する予告が書かれていたのです。
ここで重大な事も書かれていました。「陸戦隊」も乗船しているとなっていたのです。
アヘン戦争では、陸戦隊の上陸で清国は和睦 (実態は降伏)

海防策に詳しい江川太郎左衛門英龍を交えて協議 (米艦隊の武装、戦法)
不利を悟った幕府(老中・安部正弘=海防掛)は、黒船艦隊の来航を告げた「別段風説書」を譜代大名に回覧して意見書を求めました。


海防の強化に本格的に着手したのです。


西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和、そして「大砲台場」の建造でした・・・


 

【参考】
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 「異国船無二念打払令」は文政8年(1825年)に発令されましたが、天保13年(1842年)には撤回され「天保薪水令」に切り替えていました。外国の船がやってきたら食糧や燃料を与えてお引き取りいただくという穏健な政策です。この政策の切り替えは「アヘン戦争」を知っていたからです。
引用⇒ http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20130114/1358160484
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老中・安部正弘(海防掛)
幕政においては、弘化2年(1845年)から海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせた。また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、筒井政憲、戸田氏栄、松平近直、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震など大胆な人材登用を行った。

正弘自身は異国船打払令の復活をたびたび諮問しているが、いずれも海防掛の反対により断念している。ただし、これは正弘の真意ではなく斉昭ら攘夷派の不満を逸らす目的であったとの見方もある。

正弘は江川英龍、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを登用して海防の強化に努め、講武所や長崎海軍伝習所、洋学所などを創設した。後に講武所は日本陸軍、長崎海軍伝習所は日本海軍、洋学所は東京大学の前身となる。また、西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など幕政改革(安政の改革)に取り組んだ。
 
安政4年6月17日(1857年8月6日)、老中在任のまま江戸で急死した。享年39。跡を甥(兄・正寧の子)で養子の正教が継いだ。

wikipedia

*ブロク主 米国で学んだジョン万次郎を韮山に攘夷派から匿ったのは江川英龍でした。
準藩校(韮山)で、英語を教授させた。

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■江川太郎左衛門英龍 お台場
http://nouheibushi.kan-be.com/page006.html

お台場地図 



お台場建造その1
 
http://youtu.be/yLd8S_aqHQ0




お台場建造その2

http://youtu.be/KGlkGQ1akUY


お台場建造その3
 
http://youtu.be/YRHCDaP5oIA




鎌倉時代、伊豆の韮山に日蓮聖人が現れました。

執権・北条氏に伊東に流罪とされていたのですが、韮山に招かれたのです。
韮山は北条氏の故地です。
江川氏とは同じ村・・・鎌倉幕府の配下の家来でもあります。
鎌倉に逆らったのか? 鎌倉の暗黙の指示なのか? 歴史の謎です。


江川太郎左衛門英龍に母親が与えた『忍』の文字は、刃の下に心を置くことですが、日蓮聖人の『忍辱(にんにく)』の教えだと思います。
元服の齢では、己一人で自刃する作法を教わります。(介錯なし!)
そして『法華経』を学ぶのです。
現在も・・・・



【参考】
忍辱(にんにく) 今を肯定し受け入れる

良寛和尚の有名な言葉に、「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬる時節には、死ぬるがよく候。」とあります。「災難や死には普段からそれぞれ備えをなすべきで、その場に臨んだら避けられないのだから、災難や死に徹して生きよ」(松原泰道「心の杖ことば366日」海竜社)ということです。

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